おはようございます。
「読み・書き・計算」という言葉は聞いたことがあるけれど、当たり前のように日本語を読めて、書けて、計算もできる自分にとっては、
「読み書き計算の方が、自分一人で完結するし、簡単じゃない?」という素朴な疑問が・・・
確かに、教えてくれた人がいるからこそ「読み書き計算」ができるようになっているわけで、もし教わらなかったら技能を習得できなかったのでしょう。そう考えると、「話すことの方が簡単」というよりは、機会の問題なのだろうか。
なぜこんなことを考えているかと言うと、自分自身が明らかに
「話すよりも、読んだり書いたりする方が負荷が低い」と感じていて、
逆にナミビアの人と接していると、
よく挨拶し、町中でおしゃべりする大人たち。
よく発言し、話すことを尊重する先生たち。
母語での補足説明を聞きながら、英語での表現を学んでいる子どもたち。
子どもたちに関しては、ほとんどの子が教科書を持っていなくて、ノートにも文字ばかりなのに、よくわかるな!!と感心する。
こちらの人にとっては、「読むことよりも、話すことの方が簡単」なのかな・・
あと度々頭をよぎるのが、「視覚優位・聴覚優位」という言葉。
自分自身は明らかに「視覚信者」で、視覚的にわかりやすいことが、わかりやすいことなんだと思っていた。
教会に連れて行ってもらった時、英語が分からないのもあるんだけど、10分くらいで「そうだ、スーパーに行って買いたいものは・・・」みたいなことを考え始めた・・・
長時間「聞くこと」への集中力が全くない。
それに対してナミビアの人は、
教会でじっと話を聞いているし
授業中も、例え40分ずっと先生の話でも、一応聞いている。
中には他のことを考えている子もいるのかもしれないけれど、先生が最後に話を振った時に、わかったことを答えられていたので、全く聞いていないわけではないようだった。
こちらの人は「聴覚優位」の人が多いのかな。
話すことの方が、簡単なのかな。
この前の独立記念日の集会では、ゲストの男性が本当に45分くらいずっとスピーチしていった。低学年の子がざわざわし始めると逆に安心する。そりゃそうだよねって。。。しかし聞いてないということで叱られる。
「子どもを立たせて長々と話をする大人の方が悪いでしょ!」
って思うんだけど・・・
当たり前のことが違うと、こんなに「聞く集中力」がつくものなんだろうか。
しっかり聞くと、他のことを考える、の中間くらいの、ざっくり聞いて理解するみたいなのが存在するんだろうか。
図とかを見るよりも、話を聞いた方がこの子たちにとってわかりやすいんだろうか。。
長期休み中は子どもたちがいないので考えるばかりになってしまう。早く休み明けないかな~って思うのは、やっぱりこの仕事が好きなんだろうなって思う!
多分、図を見てわかりやすい、とはならない。話すこと聞くことがプラスされることがこっちの子には大事なんじゃないかな。休みが明けたら色々な仮説を回収していかないと。
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